十六善神(大般若の掛軸)

十六善神大般若会には本堂中央須弥壇上に十六善神様の掛軸をお祀りします。
まん中の仏さまはお釈迦さまで、お釈迦さまの右手前に、獅子にまたがっておられる仏さまは文殊菩薩、「三人寄れば文殊の智恵」といわれますように智恵を代表する仏さまです。左の方に、文殊菩薩と向き合って象に乗っておられる仏様は普賢菩薩です。文殊菩薩が仏様の智恵を代表するのに対して、普賢菩薩は仏さまの慈悲の象徴です。仏様の徳は悲智円満と申しまして、慈悲と智恵とを円満に備えておられるのです。その仏さまの徳を二人の菩薩さまがそれぞれ代表しておられるわけです。

次に、お釈迦さまの左右に八人づつ、剣や槍や斧などを持った恐ろしい顔をした方々が描かれておりますが、これは十六善神と申しまして大般若経を守護し、仏法を信ずる皆さまを護ってくださる方々のお姿です。このほか、やさしいお顔の法涌菩薩、泣き顔をした常啼菩薩、ともに大般若経に深い因縁のある菩薩さま方様です。

 それから一番前の方、向って右に、お経を沢山背負ったお坊さんがおられます。このお方が大般若経をインドから中国に持ち帰って、漢文に翻訳された有名な玄奘三蔵法師(げんじょうさんぞうほうし)です。

玄奘三蔵法師と向き合って左の方に、シヤレコーベをネックレスのように首にぶらさげている赤鬼のような恐ろしい人がおりますが、これが深沙大王という悪魔の王様です。昔も昔、今から千年以上も前のこと、インドを天竺、中国を唐の国といった当時、唐の国からはるばる天竺に渡り、仏教を研究してお経をたずさえて帰る坊さんがあると聞くと、深沙大王は途中の砂漠に待ち伏せして、そのお坊さんを殺害し、仏教が外国に伝わることを妨害しておりました。ぶらさげたシャレコーベは、そうして殺したお坊さんの骸骨です。ところが玄奘三蔵法師が唐から天竺に渡り16年の間、仏教を研究し大般若経をはじめ、数多くのお経を持ち帰るとき、深沙大王は不思議にも悪心を捨てて善心を起こし、今までの悪魔が仏法の守護神にかわり、玄奘三蔵の一行を無事唐まで送り届けてくれたのです。そうした因縁により、深沙大王も仏法守護神の一員として祀られているのですが、この一事を以ってしても、大般若経の功徳力がいかに大きいものであるか、玄奘三蔵という人がいかに徳の高いお方であったかがわかります。

道元禅師御一代掛軸

毎年9月28日 林泉寺においては恒例行事であります。御開山忌法要・秋季檀信徒供養法要が修行されます。その際、曹洞宗の開祖であり、永平寺を開かれたました道元禅師の御一代記の掛軸を本堂に掛けます。この掛軸は箱書きによりますと江戸時代の文政7年(1824)、今から約190年前の掛軸となります。彩色も素晴らしく状態も良好です。現代と比べると、昔の人々は、灯りや道具や情報が限られているような環境でこのような素晴らしい作品が出来たという事は技術力・集中力・根気とすべてが我々より遠く及ばない程、力量のあるの職人さんが多かったと思われます。先人達の努力には頭が下がります。

道元禅師御一代記1

道元禅師御一代記1

道元禅師御御一代記2

道元禅師御御一代記2

釈迦三尊(碧南市文化財)

こちらは林泉寺寺宝の釈迦三尊像であります。平成31年碧南市文化財に登録されました。

通常釈迦三尊像というと、お釈迦さまを中心にし、右の脇侍に象に乗った普賢菩薩、左の脇侍に獅子に乗った文殊菩薩というのが一般的であります。

普賢菩薩は慈悲の象徴、文殊菩薩は智慧の象徴であります。この慈悲と智慧はお釈迦様の教えの根本であり、この両脇侍はお釈迦様の教えの中心を現しているとも言われています。

智慧による合理的で道理にかなった普遍的な教えがあり、またそればかりではなく、臨機応変にその人に合った教えでなくてはならないのです。

釈迦三尊

釈迦三尊

一佛両祖

仏教各宗派でそれぞれ拠り所にしている仏様がありますが、曹洞宗では、真ん中には、お釈迦さま、向かって右側には大本山永平寺の道元禅師さま、左側には大本山総持寺の瑩山禅師さまを指します。我々の檀信徒のお仏壇もこれにならいます。もちろんご自宅のお仏壇が前述と違いましても、全く問題はありませんし、今あるお仏壇を買い替えたり、洗い直したりする時にも、以前からお祀りしていた仏様を新しくする必要はありません。ご自宅を新築したり、リフォームしても、住んでいる人を新しくしないのと同じです。

道元禅師さまのお言葉「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」

瑩山禅師さまのお言葉「茶に逢っては茶を喫し、飯に逢っては飯を喫す」

中々このような境地には遠い感じがします。

私も一句 「東へふらふら 西へふらふら 毎日毎日 惰眠を貪る」

う~む 修行が足らん!

 

一佛両祖

一佛両祖

寒山拾得

古来より禅宗に好まれて絵の題材になる事が多い『寒山拾得』である。

特に自由な禅の世界を現した漢詩が有名である。掛軸としては2幅で1対となっている。中国で唐代に浙江省にある天台山の国清寺に居たとされる伝説的な風狂の僧の名である。『寒山子詩』の作者とされる。後世、拾得と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。

拾得

拾得

 

 

寒山

寒山

 

蓮月のハス

蓮月とは「大田垣蓮月」という。(寛政3年1月8日(1791年2月10日) – 明治8年(1875年)12月10日)は、江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも称した。蓮月は、若き日の富岡鉄斎を侍童として暮らし、鉄斎の人格形成に大きな影響を与えた。
読み 『露ならで つき(月)のやど(宿)りも なかりけり はちすにうづむ には(庭)の池水』蓮月のハス
非常に繊細(細く)で力強い(かすれや消えがない)線が特徴です。このような線は私は書けないです。すばらしい。

梶浦逸外

看脚下

看脚下

「看脚下」脚下を看ろ。禅語では好んで使われる文字である。見るではなくて『看る』を使う。ただぼんやりとではなく、丁寧にしっかりと見つめるということである。日々の我々の生活を見直してみたいものである。

只管絵皿

永平寺の秦禅師さまの絵皿であります。『只管』というのは「ただひたすら。一心に実行するという意味です。」